— 村上ゆかり (@yukarimurakami5) 2026年2月21日
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「SNS規制」は言論の敗北か。批判から逃げる政治家よ、正々堂々と“言葉”で戦え
最近、国会や政党内で「SNS規制」を求める声が目立つようになってきた。誹謗中傷やデマの拡散、選挙への悪影響、生成AIによるフェイク画像や動画の問題などを背景に、「一定の規制はやむを得ない」といった主張が、与野党を問わず語られている。新聞やテレビでも、規制論を肯定的に扱う報道が増えた。
この流れの中で、「SNSは便利だが危険でもある。だからこそ、国がルールを定めるべきだ。」と主張する政治家は一定数存在する。こうした論調に、違和感を覚えない人も多いだろう。しかしそれは本当に、国民を守るための議論なのか。
- SNS規制論の欺瞞
SNSの誹謗中傷によって精神的に追い詰められる人がいることは事実であり、虚偽情報が社会不安をあおいだり、選挙の公正さを損なったりする危険性も現実に存在する。生成AIによるフェイク画像や偽動画の拡散は、これまでの情報環境とは質の異なる問題を生み出しつつある。
規制を求める声には相応の根拠がある。総務省の報告書などが指摘するように、SNSにおける誹謗中傷の深刻化や、再生数稼ぎのための悪質なデマの拡散、選挙のビジネス化といった問題は、民主主義にとって無視できない脅威だ。こうした実害から市民や選挙の公正性を守るためのルール作りが必要なのは、論をまたない。
しかし、問題はその『正当な大義名分』の陰で、自らへの批判を封じようとする政治家の個人的な意図が一部に透けて見えることだ。制度の欠陥を正すことと、自分の説明不足を棚に上げて言論空間そのものを縛ることは、全く別次元の話である。
現に、SNS規制の主目的の一つである「偽情報対策」は、必ずしも現実と一致していない。東洋大学の調査によれば、2026年の衆院選をめぐって有権者が接した偽情報のうち約8割が「事実」だと誤認されており、偽情報に接した経路として最も多かったのは、テレビだった。テレビ経由は32.7%で、SNSの20.0%を大きく上回り、誤認識率も、テレビが84.9%と最も高い。
「SNSが危険だ」と叫ぶ政治家ほど、テレビや新聞の報道には沈黙する。東洋大学の調査が示す事実は衝撃的だ。偽情報に接した経路も、それを事実と誤認した割合も、SNSよりテレビの方が高い。この矛盾を無視してSNSだけを縛ろうとするのは、意図的だと疑われても仕方がない。
- 善意の顔をした規制が民主主義を殺す
SNS規制については、海外に重要な教訓がある。
例えば、欧州ではプラットフォーム規制が進められてきたが、その過程で「過剰な削除」「萎縮効果」「政府による間接的検閲」といった問題が指摘されてきた。米国でも、表現の自由と偽情報対策をめぐる激しい論争が続いている。
一方で権威主義国家を見ると、「誹謗中傷対策」や「秩序維持」を名目に、言論統制が急速に拡大してきた。最初は限定的な規制であっても、例外は容易に拡張され、批判の封殺へと変質していく。歴史は、その危険性を繰り返し示している。
規制は、一度導入されれば、縮小されることはほとんどない。運用の拡大と対象の拡張を通じて、徐々に強化されていく傾向さえある。その過程で失われるのは、単なる「自由」ではない。権力を監視し、間違いを正すための社会的な自己修正能力そのものだ。
SNS規制に向かう政治家の姿勢は、こうした国内外の経験と照らしてみても、決して軽視できる問題ではない。それは、一時的な対症療法ではなく、民主主義の基盤を揺るがしかねない選択なのである。SNS規制を声高に訴える政治家は、この危険性を踏まえているのか。
- 「SNSが苦手」で済まされる政治家の甘え
一部の政治家がSNSでの発信や対話を避け、規制を求める理由は、政治家自身がSNS規制をかけたほうが、都合が良いからではないか。
日本の政治家の現状を紐解くと、SNS規制は政治家自身のこれまでの活動を邪魔する存在として映る側面がある。
多くの政治家は、すでに選挙で勝つ方法を確立している。後援会、業界団体、地元組織、長年の人間関係――こうした既存の支持基盤があれば、SNSがなくとも当選できる。批判にさらされ、説明に時間を割き、炎上リスクを負うよりも、従来型の選挙活動に専念したほうが合理的だ。
日本の政治の世界では、これまで「変わらないこと」自体が評価されてきた。長く議員を続けていること、派閥に属していること、要職を歴任していることが、そのまま「実力」とみなされる。発信力や説明力といった、現代政治に不可欠な能力は、正当に評価されにくい。
つまり、これまでの政治家にとって最も安全な戦略は、「余計なことを言わず、目立たないこと」なのだ。SNSとは極めて相性が悪い。
政治の世界では、この「安全第一」の姿勢が、制度的にも文化的にも長年容認されてきた。説明不足や対話不足があっても、地盤や組織が守ってくれる。選挙で厳しく問われることも少ない。結果として、自己改革を迫られる場面がほとんど生まれない。
本来、SNSは政治家にとって最高の言論空間である。説明力、論理力、誠実さ、対応力が、日々可視化される場だ。しかし、日本の政治では、競争の場に立たないことこそ細く長く生き残る手段とされてきた。その歪みこそが、「SNSに向かない政治家」を量産してきた最大の原因だ。
- 言論で戦えない政治家の敗北宣言
SNS規制に傾く政治家の行動には、無視できない心理的要因が存在する。
SNSでは、政策の説明が十分に伝わらなかったり、発言の意図が誤解されたりすると、瞬時に批判が広がる。支持されない理由が可視化される環境は、政治家にとって厳しい。自分の説明力不足を、日々突きつけられるからだ。
こうした状況に直面したとき、本来であれば、説明の仕方を改め、言葉を磨き、伝え方を改善する努力が求められる。しかし現実には、そうした自己修正よりも、「環境が悪い」「誹謗中傷が多すぎる」と外部に原因を求める心理が働きやすい。
もちろん、悪意ある中傷や脅迫行為は許されない。問題は、その正当な対策と、自分にとって都合の悪い批判とを区別せず、ひとまとめにして「規制」の対象にしようとする姿勢だ。正当な批判まで排除しようとする発想は、結果的に「説明できなかった事実」から目を背ける行為にほかならない。
想像してみてほしい。民間企業のコールセンターが「クレーマーが怖いから、今日から電話窓口を閉鎖します」と言い出したらどうなるか。 株主からも市場からも即座に退場を命じられるだろう。しかし、政治の世界だけは「SNSは誹謗中傷が多いから規制しよう」という自分勝手な理屈がまかり通ってしまう。高額な報酬を受け取るプロとして、あまりに無責任ではないか。
- 規制に走る政治家の正体
政治家とは、言論で評価される職業だ。政策を説明し、批判に答え、反対意見と向き合い、国民を説得することが本分だ。支持されることもあれば、厳しく批判されることもある。その両方を引き受ける覚悟があってこそ、国民の代表たり得る。
しかし現代において、SNSは単なる私的なツールではない。かつての街頭演説や集会に代わる、新しい「公共の広場」である。多くの有権者は、テレビよりも新聞よりも、まずSNSで政治情報に触れている。そこから逃げることは、有権者の前に立つことを拒否しているのと同じだ。
もちろん、政治家も一人の人間であり、過剰な攻撃にさらされることはつらいことだ。しかし、それでもなお、言葉で説明し、信頼を取り戻す努力を続けることこそが、政治家という仕事の核心であり、それができるから政治家なのだ。
SNS規制論が問うているのは、制度の是非だけではない。政治家自身が、この職業に求められる責任から目を背けていないかどうか、その姿勢そのものも問われている。
- 国民が待望する「強い政治家」
国民が政治家に求めているのは、批判を封じることではなく、批判に正面から向き合う姿勢だ。
政治とは、本来、対立する意見を言葉で調整し、合意を積み重ねていく営みだ。そこから逃げ、規制という盾に身を隠すなら、それは政治の放棄に等しい。SNSは、政治家にとって都合の悪い空間であると同時に、国民の声を最も直接に受け取れる場所でもある。その荒波を避けるのではなく、乗りこなそうとする覚悟こそが、現代のリーダーに求められている。
強い政治家とは、声の大きさで相手を黙らせる者ではない。丁寧な説明と一貫した論理によって、反対派さえも納得させようと努力する者である。批判は敵意ではなく、社会からの問いかけだ。それに答え続ける姿勢が、信頼を生む。
国民は、規制という盾に隠れるような政治家は求めていない。私たちが求めているのは、批判の矢面に立ち、泥臭く言葉を尽くして私たちを納得させてくれる「戦う代弁者」だ。言葉の力を信じ、正々堂々と国民の前に立つこと。SNSに真正面から立ち向かい使いこなしていく政治家の姿こそが、我が国の民主主義を支え、政治家が国民の信頼を集める唯一の道であるはずだ。